まだ俺が小さかったころ。
自分の名前を呼ばれるのがとても、嫌で。
「エルフ、入ンぞー」
「あぁ」
そういいながら、
片手に二つのマグカップを持ってドアを器用に開ける。
入ってきたのは、長い銀髪をさらりと垂らした青年。
もとい、『ブラック・マジシャン』。
しかし、俺の主がいつも使う方ではない。
主と前に戦ったことのある、奇術師パンドラに使われていた『ブラック・マジシャン』で。
何故だか知らないが、ちょくちょく主のデッキの中に顔を出す。
もしや主がアンティルールとやらでパンドラのデッキからもらってきたのでは…
…と最近思っているのだが、詳しいところは知らない。
謎。
こいつに関してはわからないことが多すぎる。
…しかし聞いても無駄なだけであろう。
話されたとて俺には関係のないこと。
俺に害はない。
ならばそのままで良い。
「…ずいぶんとまぁ…根詰めて読むな、本」
「もともと好きだからな…」
「そーかい。…とりあえずほら、飲めよ。コーヒー」
「…すまんな」
ず、と少しすすって、コトリと床にマグを置く。
読んでいた本のページをめくる。
ようやく読めてきた文字。
集中しなければ全部読み終わらない。
何も言わずそのまま読んでいると、突然隣から手が伸びてきて本を奪われてしまった。
「…へぇ、エルフこれ読めんの?」
「…集中して読まねば読みきれないが」
「お前…これ読めるっつったら黒魔術も覚えられるぜ?」
それを聞いて驚いた。
そんなに高度なものを読み解いていたのかと。
主のマジシャンに少しずつ教えてもらってはいたのだが、
初歩中の初歩を繰り返し教えてもらっていただけだった。
その後はほぼ独学で、基本までは読めるようにはなった。
しかし…予想していたよりもはるか上を行く結果になるとは。
「…文字も書けるのか?」
「あぁ」
「んーじゃぁ、名前書いてみろよ、お前の名前」
「………」
名前。
嫌な思い出しかない、名前。
「…え、なんかまずいコト言った?オレ…」
「…いや、なんでもない…」
黙り込んだ俺を彼は気まずそうに見下ろすが、ふるふると首を振って俺は苦笑した。
今はそんなこと、関係のないことだと考え直して。
「…ん」
「…?……『シェン』…?」
俺が気づかぬうちに、先ほどまで読んでいた本に書き付けていた文字。
黒いインク、斜め右上がりの癖字で、『シェン』、と。
「…オレの名前」
「…ほう」
「…これからそうやって呼んでくれっとオレ的には嬉しいんだけどな?」
「……そうか」
また、俺の顔が曇る。
名前を呼ばれて、嬉しい?
俺は、そんなこと一度も。
「名を呼ばれて、嫌なことはなかったか?」
「なぁんで名前呼ばれて嫌なんだよ」
何故、か。
「……昔」
――――女、と。
女みたいな名前、と。
顔も女顔だった俺はその顔も含め、散々言われたから。
「…名前、聞かれるの嫌だったか?」
「………」
何も答えられない俺に、隣にいる『シェン』という銀髪のそいつは言った。
「…ま、オレももともと名前なんざなかったしな。
そんなえらっそーなコト言えねーけど」
そういった後、俺は聞いた。
小さいころ孤児院で生活していた『シェン』は、
むしろ名をほしがっていたということを。
だから自分で名前を作って、呼ばせていた。
誰も自分を呼んでくれないことに、悲しさ、寂しさを覚えたから、と。
…俺には母親がいて父親もいて。
無論今はいないが、確かに。
俺にはちゃんと、名前があった。
「…お前に、ひどいことを言ったかもしれんな」
「何で?」
「…俺にはちゃんと、名があるのに」
呼ばれて傷つく名よりも。
呼ばれることがない名無しのほうがよほど。
よほど。
「…『カイナ』」
「…お前の名前?」
「…女々しいと言われ続けた名だがな」
苦笑して言うが、シェンは何もいわずに。
俺の頭をぐしゃぐしゃとかき撫でた。
「そーかそーか、カイナか」
気の良い笑顔を浮かべて、俺の名を呼ぶ。
あまりにも今まで呼ばれなさ過ぎて違和感を感じた。
しかし、呼ばれているのは間違いなく俺であって。
…そういえば人の名を呼ぶのもいつしかしなくなっていたなと、今更気付く。
「…シェン」
「…お?なんだ?」
「……」
「何びっくりしてんだよ」
「…いいものだと、思ってな。名前というのが」
苦笑ではない、微笑みを浮かべていたらしい。
今度はシェンが驚いていた。
「なかなか…いい顔すんじゃねーの、お前。
仏頂面よりそっちのほうがオレは好き」
目の前で銀髪が揺れた。
目の前に、長い睫毛があった。
唇が、唇に、触れていた。
わずか一瞬、一瞬。
離れ際、軽く音を立てて。
「……ッ…?」
「口直し」
シェンの指先に赤く丸い玉。
甘味が口の中にころりと転がって。
「んじゃまたな、カイナ」
…今ドアを閉めたあいつの指先が、唇に触れたとき冷たくて。
自分の体温が、異常なほどあがっていて。
その場から動けなくなってしまった俺は。
きっと、しばらくは本を読み終われないだろう。
端に書いた名がちょうど、読みかけている場所にある。
Fin.